アダルトコラム

大正時代はセックス文化も変化の時?特徴や避妊・風俗事情まで!

最終更新日 2023.07.07

大正時代セックス

インターネットや雑誌などで、手軽にアダルトコンテンツが見られるようになった現代。
日本の性教育は乱れていると、しばしば声が上がります。

しかしこのような環境になる前、日本の性事情は一体どのような状況だったのでしょうか。
そこで本記事では、「セックス文化の変革期」といえる大正時代の性事情について解説します。

性に関することも、立派な日本の歴史です。
教科書では語られない大正時代のセックス事情について、見ていきましょう!

大正時代のセックスの特徴

生理中ってセックスしていいの?

まず大正時代とは、西暦で1912年から1926年の間を指します。
期間にして、たった15年の短い元号です。

また大正初期は日露戦争の終戦から国が復興していこうという時期でもあったため、風俗に関しては厳しい考え方がありました。

男女の関係や夫婦に対する価値観も、今とはまるで異なります。
特に大正時代は、男尊女卑の傾向が強い考え方が根付いていながら、ようやく西洋的な恋愛観を取り入れた時期です。

そのため、新しい価値観の中で民衆の性事情は混とんとしていました。

自由恋愛の始まり

明治時代が終わり、大正時代になって日本には海外の考え方が盛んに流入しました。
中でも特徴的なのが、「恋愛至上主義」という考え方です。

この考え方はキリスト教に基づくもの。
そして「人は誰でも自由に恋愛して良い」とする考え方です。

今までは男尊女卑の傾向が強く、女性の自由恋愛は特に非難されてきました。
しかし大正時代に入ってからは男女どちらも、比較的オープンに恋愛できるようになっていくのです。

セックスの責任が発生

自由恋愛を推進する考え方が広がる反面、従来の価値観は中々捨てきれません。
「セックスは女性が男性に捧げるもの」という考え方が広まりました。

この考え方は恋愛至上主義とはやや異なり、男尊女卑的な文化の名残が感じられます。

また、「男性はセックスをしたら、その女性の責任を取る」という考え方も大正時代に一般化しました。
つまり、セックスすることは夫婦の愛の証を確かめるための行為といった位置付けになったのです。

明治時代以前は、ただ快楽のためだけに行われていたセックスですが、ここにきて「愛情」や「責任」といった意味を持つようになります。

夜這い文化はずっと続いている

明治時代以前からある「夜這い」文化は、大正時代も続きます。
夜這いとは主に、夜な夜な男性が女性のもとへ足を運び、セックスすることです。

「求婚」や「言い寄る」こととして夜這いという言葉が使われる場合もあります。
この夜這い文化は、特に田舎の農村でさかんに行われました。

子供ができないと捨てられる!?

日本では元から「セックス=子供を作ること」として考えられてきました。

また子どもを産むことも、セックスを率先してすることも、女性の役割だとする考え方が一般的だったのです。
この考え方は大正時代になっても根強く残り、子どもができない女性への当たりはかなり強かったようです。

中には第二夫人(妾)を迎える男性もいました。
そして妾の方が先に子供を妊娠した場合、正妻との立場が逆転することもあったのです。

大正時代の女性誌「婦人公論」では、子どもを4人産むと助成金を出そうなどという政策が考案されていたことも分かっています。

昔から、妊娠と出産は家督を継ぐためにも政治的にも、非常に重視されていたことが分かりますね。
セックスに対して男女フェアな価値観が築かれつつある現代では、考えられない状況です。

オナニー率は90%以上!

明治時代以前は男女に関係なく、セックス以外で性欲を見せることは恥ずべきこととされていました。
そのためオナニーもタブー視されており、隠れてする人が多かったようです。

しかし、大正時代に入ってオナニーへの考え方が徐々に覆されます。
海外的な思想の普及と性科学の研究が進むこにつれ、オナニーは生物的に当然のことであるという風潮へと変化しました。

当時の同志社・東大・京大の学生にとったアンケートでは、実際は96%以上がオナニーをしていたというデータもあります。
このような変化から、オナニーへの考え方も徐々に変わるようになりました。

全裸の正常位は憧れ

大正時代はほとんどの人が後背位でセックスしていたという記録があります。
というのも、大正時代は多くの人がカギもない木造の小屋で生活していました。

そのため、プライバシーなどあってないようなもの。
いつ人が訪ねて来て、部屋を覗かれるか分かりません。

そのため、下半身の衣服だけを脱いであまり目立たないようにセックスをしていたようです。
全裸になって堂々と正常位できるのは、鍵付きでプライバシーの確保できる屋敷に住む一部の富裕層だけだったとか。

また正常位へのあこがれがあったため、風俗での体位リクエストは正常位が最も多かったそうです。

大正時代はセクハラが多発!

大正時代は男尊女卑の思想が根強く残っている時代であり、女性へのセクハラが当たり前のように横行していました。

特に、大正時代は職業婦人といって働く女性が出てきた時代でもあります。
そのため、職場でのセクハラもかなり多かったようです。

女性誌「婦人公論」では、当時のセクハラ事情が赤裸々に書かれています。
男性が女性のお尻を触るのはもちろん、壁に押しやられてスカートを脱がされたというエピソードも。

ほかにはパンツに手を入れられたなど、今では考えられないセクハラがまかり通っていることが分かります。
今でこそセクハラで訴えられそうな男性が、たくさんいたということですね。

大正時代の風俗事情

大正時代 セックス

では、大正時代の風俗事情は一体どのようなものだったのでしょうか。
大正時代は戦争の名残で、風俗を規制する動きがありました。

しかしそれも時代が進むにつれて徐々に緩和され、自由に風俗へ通う人も増えていったのです。
中でも、現代でも有名な風俗街「飛田遊郭」ができたのは大正時代のこと。

大正時代は、現代の風俗が生まれた変革点ともいえます。

飛田遊郭ができたのは大正時代

飛田遊郭ができたのは大正時代5年、西暦にすると1916年のことです。

セックスが今までよりもフランクにとらえられる風潮の中で、飛田遊郭は生まれました。
中でも飛田遊郭の最大の売りは、大きなダブルベッドです。

先ほど、全裸で正常位することに憧れる男性が多かったとお話ししました。
この願望をかなえる設備を始めて整えたのが、飛田遊郭です。

ダブルベッドの上では、思う存分遊女と全裸でイチャイチャできます。
ダブルベッドは飛田遊郭の人気がきっかけで、一般家庭にも普及するように。

さらに飛田遊郭は部屋も豪華絢爛なつくりで、当時の男性からすると衝撃的だったでしょう。
こうしてあっという間に、富裕層の男性を中心に人気となりました。

そしてこの後には数々の遊郭が誕生することになります。

中学生から風俗遊び!?

遊郭に足を運んでいたのは、何も成人男性ばかりではありません。
当時の男性は、小卒や中卒で働くのが当たり前の時代。

そのため、10代で遊郭デビューする男性も少なくなかったようです。
特に、学校に通う男子学生は遊郭によく通ったそう。

当時の統計によれば、17歳ころに初めてのセックスをしている男性の割合が最多。
そして多くの男性が、初体験の相手が遊女だったとのデータもあります。

このように、学校に通うお金のある男子学生が風俗にいくことは、何ら不思議ではありませんでした。
反対に、貧しい農村の男性は風俗を利用できなかったでしょう。

性病=花柳病

大正時代にも、性病のトラブルは多くありました。
現代では「梅毒」や「淋病」と呼ばれる性病の数々は、大正時代にも感染した人がいるとの記録があります。

特に遊廓など花柳界から性病が広がったことから、性病は「花柳病」と呼ばれることがしばしば。

花柳病に感染した男子学生は「放蕩男子」と呼ばれ、こうした男性からの求婚を女性が拒否する動きも出てきました。
さらに大学受験の際に受験生たちは「M検」と呼ばれる性病検査を受けたという記録も。

こうした経緯を見ると、このような性病の蔓延が社会的に問題視されていたことが分かります。
医療技術や知識が現代より乏しいこともあり、性病は非常に危険視されていたことでしょう。

また、「性病=不貞・不誠実」といったイメージも付いて回りました。

大正時代のセックスでも避妊していた!

彼女 生理

大正時代は、セックスをしてどんどん子供を産むというイメージがあるかもしれません。
しかし、大正時代にも避妊技術はいくつか存在していました。

避妊が一般化し、世間に避妊具が浸透するにはまだ時間がかかるものの、遊女や一部の富裕層は避妊をしていたそうです。
なお、当時の避妊具で最も使われていたのはコンドームだそう。

個々に関しては、現代と変わりませんね。
では、大正時代の避妊について詳しく見ていきましょう!

コンドーム

現在のものよりかなり品質は落ちるものの、大正時代にもコンドームがありました。
溶剤にゴムを溶かして成形したもので、基本的な造りは現代のコンドームと同じです。

当時は「サック」と呼ばれており、指サックのような形状のコンドームだったそう。
また大正時代の技術では密閉度が低かったため、ペニスの根元に当たる場所にはヒモが付いていました。

そして装着後、そのヒモを縛ることで精液が漏れるのを防ぐという使い方です。

なお、人工的に作られたゴム製のコンドーム以外に、魚や動物の内臓を使ったものもありました。
これらは人工ゴム製の商品より高品質とされ、一部の富裕層しか手に入らない高価な商品だったようです。

性交中絶

セックスの途中で挿入をやめる、いわゆる「外出し」も大正時代には有効な避妊方法として考えられていました。
もちろん、膣外に射精したからといって避妊効果はありません。

しかし性に関する民衆の知識が乏しい時代の中で、こうした避妊方法を有効だと信じる人は多かったようです。
同時に、性交中絶を非難する人も少なくありませんでした。

というのも避妊方法として不完全である上に、男女どちらにも満足感が得られないためです。

そもそも大正時代は避妊そのものに嫌悪的な人の多い時代であったものの、外出しよりはコンドームの方がまだ推奨されていたようです。

薬品挿入

膣内に直接薬品を挿入して、避妊する方法もありました。
よく使われていたのは「貴女の友」という薬です。

直接膣内に入れることで薬が精子を死滅させ、避妊する仕組みです。
なお形状は、クリーム状や錠剤タイプなど色々あったよう。

いずれにしても酸性の薬品が多かったため、膣が炎症を起こすリスクが高いのが難点でした。
女性の身体への負担が大きいとされ、そこまでメジャーな避妊方法ではなかったようです。

ペッサリューム

現在医療器具として使われているペッサリーは、大正時代に避妊具として用いられていました。
大正時代のペッサリーはペッサリュームと呼ばれ、ゴム製の小さな帽子のような形でした。

これを膣内に入れ、子宮口をふさぐことで避妊する仕組みです。
ただし完全に密閉できないリスクがある上、自分で装着するのは中々難しかったでしょう。

コンドームに比べて、かなり上級者向けの避妊器具といえます。

膣内洗浄

セックスした後の膣内を洗う「膣内洗浄」もまた、避妊方法の1つとして考えられていました。
しかし現代の常識でも分かる通り、この方法による避妊効果が低いことは大正時代にも周知されていたようです。

そのため、避妊というよりは性病予防の意味で行われていました。
なお膣内洗浄に用いる器具は、直接膣に挿入して洗うものや、チューブを入れて洗浄器で洗うものなどがあります。

排卵測定

大正時代は、排卵日がいつ起きるかという医学的な知識が広く知られていませんでした。
そのため、月経が来る前の12~19日間でセックスしなければ確実に避妊できないとされていたのです。

もちろん、この説に根拠はありません。

月経が乱れれば排卵日がずれることも当然ありますが、当時はこれが確実な方法として信じられていました。
また男女ともに負担がかからず簡単な方法であることから、推奨もされていたようです。

まとめ

大正時代のセックス事情について解説しました。

大正時代の性生活について知ると、「現代に生まれて良かった」と思う方も多いのではないでしょうか。

こうした時代の変革期を経て、現在のセックスに対する価値観や考え方ができています。

歴史を知ることで、また違ったものの見方ができるかもしれませんね。

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